プロフィール
20歳の時、キリストの喜びを知り、私もいつか、病気か何かあってキリストを信じるようになるだろうと思った。
24歳の時、職場で吉村孝雄さんと出会い、伝道のために手書きで出されていた「図書紹介」によってキリスト信仰に導かれ、徳島聖書キリスト集会に参加。その後、大阪に来て、32歳の時、近所の人たちと大阪狭山聖書集会を始め、今に至っている。日曜や水曜集会を合わせても十数名の集まりがこうして続く恵みに感謝。
聖句
ローマの信徒への手紙
1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
コリントの信徒への手紙―
1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
宮田です。今年の全国集会の主題は「神こそ我らが主」とあります。私たちは、イエス・キリストを神であると信じる者です。だから、「神こそ我らが主」とは「この罪の世に人となって来てくださったキリスト、そしてやがて再び来られるキリスト」、このお方こそ主なのだと、集められた者が心を合わせて告白する場なのだと思いました。
キリストこそ、「すべての民に与えられる大きな喜び」「福音」そのものであります。そのことを思っていると、「わたしは福音を恥としない」というパウロの言葉がよみがえります。
「わたしは福音を恥としない」、これは、当時の世界の中心であるローマに向かって、パウロの語った言葉です。今でこそパウロというと、世界にキリストを伝えた第一人者として、疑う人はありませんが、この「ローマの信徒への手紙」を書いた頃のパウロ、そしてその後、ローマに連行されたパウロは、「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました」と第二テモテ4章16節にあるように、決して押しも押されもせぬパウロではありませんでした。ただ、「福音は信じる者すべてに、救いをもたらす神の力である」と確信し、「わたしは福音を恥としない」と、命をかけて、その生涯をかけて福音を語り続けました。
私は、このパウロの「福音を恥としない」という言葉を聞くと、身の縮まる思いがします。世界の中心ローマに向かってどころか、ごく身近な人にも、福音を伝えることには躊躇してしまう自分が分かるからです。今の時代に平和について、環境汚染について、様々な社会問題について話すのに、さして勇気はいりません。困っている人がいれば、「何でも言ってね、手伝うよ」と優しい言葉をかけるのも、そんなに難しいことではありません。それなのに
「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。
それは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」
と、誰にとっても、どんな時代の、どんな境遇にある人にも、なくてならぬ命の言葉を、日常生活で話すことはほとんどないのです。
聖書の言葉は聖なる言葉だから、豚に真珠を投げてはならないと、普段の生活では黙っていて、日曜日にだけ、キリストを信じる人たちの間でだけ、語り合えばよいのでしょうか。
しかし、福音書を読めば、イエス様がいかに人々の日常と結びついておられたか、驚くほどです。ペテロたちが「わたしについて来なさい」と呼びかけられたのは、漁師として漁をしている最中であり、マタイが呼ばれたのは、徴税人として収税所に座っておそらくお金の計算をしている最中でした。
イエス様は人々の日常の中を歩まれ、人々は日常の中でイエス様に出会いました。
どんな人にも、どんな小さな出来事にも、すべての日常に神を見、神の声を聞いておられたイエス様は、野の花や空の鳥、種まく人の姿、いなくなった一匹の羊、夕方になってやっと働き場を見つけた人や、自分を守るために不正なことをした管理人にさえ、そこに込められた神の語りかけを聞き取り、そのままを人々に語っておられたのが分かります。
このこと一つとっても、日常のただ中で、天の国について、父なる神について、ごく自然に人々に語り、人々のまなざしを高く引き上げることのできたイエス様が、ただの人ではないことが分かりますが、これらの言葉を注意深く読めば、イエス様はこの世のことではなく、天の国について、また、この世の命ではなく永遠の命について話しておられるのがわかります。
あの山上の説教だって、天の国がなければ成り立たない話です。天の国を語らずに、永遠の命を語らずに、イエス様の言葉をこの世の教訓として受け取ることもできないわけではないけれど、それでは、これらの言葉に込められた驚くばかりの喜びは失われてしまう。
でも、ここに私たちがなかなか人に話せない大きな理由があるのに気づきます。この世のことなら、人は止めどもなくしゃべります。自分のこと、家族のこと、仕事のことや趣味のこと、病気のことや、老後の心配、政治問題から経済問題、この世の中これからどうなっていくのだろう・・などと話し出すときりがありません。しかし、そのような人の言葉はいくら話しても、いくら聞いても、たとえ一時の楽しみや元気のもとになったとしても、私たちの心を、真に明るくすることはありません。
そうは分かっていても、永遠の命や天の国の希望について、罪の悔い改めや、キリストの十字架について人々に話す勇気は出ず、結局、神の言葉は礼拝の中でだけ語られるという、イエス様のなさり方とはかけ離れたものになってしまいます。
先日も姉から、同級生が急死したので、今夜はお通夜に行かなくてはならないと、電話がありました。
その時の状況とか、ご家族の様子とか、色々な話を聞きながら、「人は死んで終わりという訳にはいかない、すべてを知っておられる神様の前に立たなければならない。その時に頼れるのはキリストの十字架だけだ」と、私は信じているのに、でも、そんな話をすれば姉はきっと嫌がるだろう。今は、黙っていた方がいい。いつか自分の方から、「死ぬのが怖い」と言って来た時、キリストの十字架の話をしよう。
すべての業には時がある。あせってはいけない。今は黙っていよう。
なぜ、いつもそう思ってしまうのか。キリストの救いを話そうとすると、すぐに、信仰は自由だから、押し付けてはいけないと、心のブレーキがかかってしまう。
そして気づくのです。わたしは福音を恥じていると。
今回は、そのような自分を省みて、パウロの「わたしは福音を恥としない」という言葉に続く「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」という言葉に聴き入りましたので、そのことを話します。
☆まず「福音」とは。
神様からの良き知らせ、すべての民に与えられる大きな喜び、紛れもなくイエス・キリストです。イエス様は、天の国にこそふさわしいお方、その聖なる、清きイエス様がこの罪の世では理解されず、「暗闇は光を理解しなかった」とあるように、人々に受け入れられず、十字架につけられ殺されたのも、思えば当然のことでした。
癒しや奇跡を求めて押し寄せ、最後には「十字架から降りて来い、そうすれば信じてやろうと」とあざけった民衆の心、人間の奥深い罪をイエス様は、誰よりもよく知っておられた。
それでも、イエス様を一目見ようとイチジク桑の木に登って待ちわびるザアカイの中に、御自身の足元にひれ伏し、涙を流して止まない罪の女の中に、神に造られた者としての輝きを見、その美しさを見いだし、神はあなたたちの父なのだと、人は神様を、「天のお父さま」と呼んでいいのだと、教えてくださった。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの父の御心ではない」のだと。
この主イエスを一心に思っていると、喜んで誰にでも話したいと、心が熱くなります。パウロが「イエス・キリストをいつも思っていなさい」と愛するテモテに告げたように、福音を恥じない秘訣は、イエス・キリストをいつも思っていることだと示されます。
☆次に、救いをもたらす神の力、「救いをもたらす」という言葉ですが、「救われる」って、みんなどんなイメージを持っているのだろうと、先ず電話で、娘に聞いてみました。すると「お母さん、それは天国に行けるってこと」と、即座に応えました。夫に聞いてみると、う~んと考え込んで、「喜び」と答えました。仲良くしている信仰の友は、「十字架、罪の赦し、私はただ受けるだけ」と答えました。教義的には、何が正しいのか知りませんが、私は、ある本から、「救いをもたらす神の力」は、ルターの翻訳では「至福を得させる神の力」となっていると知りました。至福とは、何によっても邪魔されず、乗り越えられることのない喜びですが、この一言で、「救い」とは「至福」なのだと、心がいっぱいになりました。
個人的なことで申し訳ありませんが、私は若い頃、ヒルティーの「幸福論」を紹介されて、それで神様を信じたと言っていいほど、ヒルティーに夢中でした。「幸福の種類には二とおりある。一つはつねに不完全なものであって、この世のさまざまな宝をその内容とする。今一つの幸福は完全なものであって、神のそばちかくにあることが即ちそれである」。この言葉を読んで、そうだ、「神のそば近くにあること」それが真の幸福なのだと、夜も眠れないほど感動していたのですが、それから40年以上たった今、その予感は的中しており、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」1テサ5:10と、神と共にあることこそ、私たちの至福、キリストの救いなのだと分かります。
☆次に、「信じる者すべて」ということについて。
イエスは私たちが神のもとに行くために、道となってくださった。その大いなる真理も、私たちが信じなければ何も始まりません。道があると知っても、そこに座り込んで眺めているだけでは、何にもならないのです。聖書はどこを読んでも、神を、キリストを信じなくても人は救われる、至福を得ることができるなどとは書いてありません。「福音は、『信じる者すべて』に救いをもたらす神の力」とあるとおりです。
信じると言うことについて、今は離れて行ってしまった、友人の言葉を思い出します。「わたしは聖書を毎日読むし、信仰の証を聞いたりするけれど、私にとってはどれもみな、レストランでメニューを見ているようなもので、いくら美味しいよって言われても、美味しそうだなって思っても、まだ食べたことがないから分からないって気分なんです」。
それこそ長年一緒に信仰生活を続けてきたのに、この人は何ということを言うのだろう。ああ、私にはこの人のことが何にも分かっていなかったのだと、それこそ自分の愚かさを、愛の
なさをかみしめるばかりでした。そしてそういうと、信仰のことで一緒に働いていても、この人にはいつでも義務感のような、しないといけないからしているという、重苦しさが漂っていたなぁと気づきました。
人はキリストを信じなくても、クリスチャンらしい信仰生活を送ることはできます。でも、それではいつか苦しくなって行き詰まってしまう。
他人事ではありません。「イエス様が父なる神を信じたように、私も神様を信じています」などと誰が言えるでしょうか。嵐になって船が転覆しそうになっても、幼子が母の胸の中で眠るように、父なる神様を信頼して眠っておられたイエス様。
「信仰を持ち、疑わないなら、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、その通りになる」と言われ、その御言葉を日々生きられたイエス様。
でも私たちには、信じることもゆだねることもできないような現実が起こったとき、どうすればいいのか。
たとえどんな時でも、マルコ9章24節「信仰のないわたしをお助けください」と、すがることはできる。もし私が、離れて行ったと友の心を知っていれば、それだけの注意深さと想像力があれば、「信仰のない私たちをお助けください」と、信仰のないままに、それでも共に主にすがることができたのに、今にして思います。
でも、主の手は短くはありません。
わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。
反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、
絶えることなく手を差し伸べてきた
と、主は言われます。主の御言葉に励まされ、再び祈る力が与えられるのを覚えます。
☆最後に「神の力」ということについて。
福音は、救いをもたらす神の力である。キリストの力、キリストが与えてくださる力、それは何よりも、私たちを造り変えてくださる力です。自分が一番、自分のことばかり考えていた者を、他の人の痛みや苦しみに気づく者に変えてくださる。豊かで余裕のある生活がいいと思っていた者を、たとえ苦労をしても真実に生きたいと願う者に変えてくださる。
イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負うて従いなさい」と言われました。キリストの与えてくださる力とは、自分を捨てる力、与えられた十字架を負うてキリストに従う力。私たちが求めてやまない力です。
このイエス・キリストを、パウロは「恥としない」と語ったのでした。
このイエス様が、世を去る前に、なおも「聖霊を与える」と約束してくださいました。
この世のことを語るのに、聖霊の力はいりません。人の知恵と力があれば良いのです。でも、聖霊によらなければ、キリストの福音は話せないし、伝わらない。そのことに気づいた時、パウロの手紙に、「わたしのためにも祈ってください」とくり返し書かれているのを思い出しました。
「神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」祈ってください、と。コロサイ書。
「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように」祈ってください」エフェソ書。
パウロの願いは、御言葉を宣べ伝えることであり、それは自分の知恵や力では決してできないことを知っていたから、聖霊が与えられるように、おそらく自分でも絶えず祈り、兄弟姉妹にも共に祈ってくださいと、訴えたのでした。
私たちは何のために祈り合うのか、もちろんお互いが守られ、支えられるように、でも、それ以上に、福音が伝えられるように、そのために働く人々を覚え、また、私たち自身もどんなに小さな者であっても、置かれた場で、少しでもキリストを証しすることができるように、そのためにこそ祈るのだと、教えられました。
次に、第一コリントの1章26節から31節について、話します。
今回、この全国集会で「聖書の話を」と言われた時、「私には出来ません」と言えない事情がありました。
と言うのは、大阪狭山では日曜日は9時からの子供集会、10時から大人の礼拝、他にも水曜集会、金曜午後には身体の不自由な方のお家で、月一回は金曜午前も集会員のお家で、若い人たちと隔週のクローバー集会、週一の早天祈祷会など、週に4日は集会をしています。それも本当に小さな、3人から6,7人の集会で、それらの集会を合わせて15名、子供たちを入れても20名ほどの集まりです。それがおおよそ35年続いているわけですが、去年の末か、今年になってか、ふと年を感じたのか、「もう少しずつ集会も減らした方がいいんじゃないか、いくら続けても新しい人がどんどん来るわけでもないし、所詮私には聖書を語ることなどできないし、仕事をしていても退職ってこともあるし」と、そんな思いが胸をよぎって、まあ、こんなものだろと思って、ところが、どうしてそうなったのかはよく覚えていないのですが、ある本がきっかけになったのか、そんな思いとは裏腹に「いや、年と共に召される日も近くなっていく、いつ『そこまで』と神様に言われるか分からない、だったら、一日一日、できる限りのことをしよう。与えられている集会も大切に、もし一緒に聖書を読みたいと言う人がいれば二人ででも読み始めよう。どんなに無益な、実りのない働きだっていい。ともかく与えられることは何でもしよう」と決心した時、「全国集会で聖書のお話しを」とメールをいただいて、私にはできませんとは言えなかったのです。
それでも、こんな私が、聖書講話をするのにふさわしいとも思えず、その時、励ましになったのがこの第一コリント1章26節から31節でした。
「兄弟たち、あなたがたが召されたとき・・・人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」
神が神であるために、人が大きくならないように、あえて「世の無学なもの、無力な者を選ばれた」とあるのだから、こんな私でも、原語で聖書が読めなくても、社会的な仕事や良き働きをしたことがなくても、救われた喜びを、今も生きて導いてくださる主を、神の言葉を語っていいのだと、勇気が与えられました。
でもその後、この箇所を読めば読むほど、ここにはこう書いてあるけれど、どうも無教会の現実は違うと思ってしまいます。
この無教会、内村鑑三は別格として、無教会と言えば矢内原忠雄、矢内原忠雄の本を読んでと言うと、この人は東大の総長でした、と続きます。今回インターネット調べて驚いたのですが、塚本虎二、黒崎幸吉、藤井武、三谷隆正、政池仁・・・どの人も「東京帝国大学卒業で、立派な人で、命がけの信仰」、もちろん他にも多くの方がおられますが、無教会の伝道者で、「無学なもの、見下げられている者」など、ほとんど聞いたことがありません。
「いや、それは違う。神はいつも弱い者、小さなもの、見下げられている者を愛して、顧みてくださる。救ってくださる。だが、伝道者はそれではいけない。伝道をするには、御言葉を語るには、正確な知識と深い学びが必要なのだ、無教会の初代の伝道者を見よ」と、誰からも言われなくても、何かしらそのように感じてしまいます。
聖書をそのまま読んで、受けた御言葉を分かち合って、創世記からヨハネ黙示録まで、みんなでくり返し読んで、いつかだんだん聖書が読めるようになった。一人一人が、「どうか、私も少しでも用いてください」と祈るようになってきた、でもこんなやり方ではダメなんだ、だからいつまでたっても力なき者ばかりの小さな集会なのだ、と心のどこかでふとそう思ってしまう。
今回そのことについて深く考える機会を与えられ、これからの私たちの歩み、少し大きく言うと、無教会の歩みについても思わされましたので、そのことを話します。と言っても私は、一昨年の「無教会とは」というテーマでの全国集会にも参加しておらず、思い込みや偏見があるかも知れません。間違っていることは、後で教えていただければと思います。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」1コリント1:30この御言葉の前には、どんな人間的な誇りも、こだわりも吹っ飛んでしまいます。
「私には一点の義もありません。でも、キリストが私の義となってくださった。生まれながらの私は、心の奥まで汚れていて口から出る悪い言葉が辛いです。なのに、キリストが私の聖となってくださり、一心にすがっているなら、キリストの聖なる愛、喜び、平和が満ちてきます。キリストが私の罪の贖いとなってくださったからです」、このお方こそ私の主と告白し、「神がイエスを・・復活させられたと信じるなら救われる」ロマ書10章9節
それだけでいい。聖書のみ、信仰のみ、キリストのみ、文字通りそれだけで、歩んで来られた今日までの恵みを思うとき、無教会に導かれたことを感謝せずにはおられません。
かつて大阪に来て間もない頃、ある無教会の先生が紹介してくださった方が、近くの教会に行っておられ、私も、少しの間ですが、その礼拝に出席したことがあります。もちろん、教会と言っても色々な教会があると思いますが、私が行ったところでは「立てられた器に従う訓練」ということを信徒の方が証しされ、要するに信徒は牧師に従うべきだというような話で、息がつまりそうになり、一人ででも無教会でやっていこうと決心させられたのでした。
今の私たちにとって、教会に行かなくても救われるのは、当たり前のことですが、しかし、思うと、それははじめから当たり前ではなかったのです。
牧師から洗礼を受け、教会員になってこそ「救われたクリスチャン」という既成の枠組みを超えて、キリストの救いは主の霊の働きによる、神の言葉を信じる者に与えられる神の力による。そのような徹底した無教会精神を、内村鑑三をはじめ、私が先に非難がましく言った優秀な先生方を用いて、神様が、この日本に、具体的な無教会集会として実現してくださったのだと、この度、強く教えられました。
たとえ2人3人でも本気で神を信じ、御言葉によって生かされ、主を証しする者の集まりを、誰からも指図されず自由に、誰に頼るのでもなく独立して、それぞれの集まりがただ主に寄り頼んで前進することができる、エクレシア。
ところが、私は今の無教会の状況を良くは知らないですが、この全国集会も「準備委員も高齢化し、地域開催は困難になり」とあり、参加者もだんだん少なくなっているようで、100年前はもとより、50年前30年前のように前進していないのかもしれません。それは、初代のような力ある伝道者がでないからなのでしょうか、それも私には分かりませんが、でも一つ確かなことは、初代無教会の先生方が読んだ聖書も、今私たちの読む聖書も同じであって、神の言葉の力が増えたり減ったりすることは決してないということです。
無教会が前進していくためには、聖書を「神の言葉」として読み、それも無教会は万人祭司なのですから、一人一人ができる限り自分で聖書を読み、神の言葉に聞き、聞いた言葉に本気で従うこと。そして、集会の中心はあくまでも、「力ある、生ける神の言葉」であるというのが、無教会の姿だと信じます。
私たちの集会でも、突然の病気で仕事もできなくなり、不自由な生活をするようになった人も、ともかく聖書を読み続け、7年目くらいからやっと自分のこととして、キリストを信じるようになりました。難しい本など読んだことがないという若い人も、聖書だけはもっともっと学びたいといいます。伝道者や、特別な勉強をした人たちに任せておかないで、自分で聖書を読む、集まって聖書を読む、そして「主なる神はこう言われる」と、今も生きておられる神の言葉を聞き、「わたしだ」と、言ってくださるキリストに出会うとき、聖書ほどすごい本はないと実感するようになります。そして、私のように、すぐ気弱になってしまう者も、楽しそうに集まる人に励まされ、強められて、集会は続きます。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」ルカ12:32と、素直に信じて進めばいいのだと、今回のことで、確かにされました。もちろん、いよいよ主に寄りすがって歩むと言うことです。
それともう一つ。ヨハネ福音書13章、弟子の足を洗われるイエス様のお姿。弟子たちの足を洗われ、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われことを、今強く思います。
主にある自由と独立、無教会と言う、たぐいまれな恵みを受けた者たちが、互いに足を洗い合う。今の無教会はどうだこうだとつい批判してしまうけれど、それでは足を洗い合うことにはならない。お互いの欠けたところや、様々な弱さをわがこととして祈り合い、許されれば具体的に出かけていき、良き交わりを与えられたいです。
私がはじめて東京での全国集会に参加した時、開会のあいさつをされた方が、「みなさん、よく来てくださいました。ここに金盥と手ぬぐいはありませんけれど、皆さんお一人お一人の足を洗わせていただくような気持ちで、お迎えしました」というふうなことを言ってくださった。それを聞いて、東京に始めてきた緊張と不安がいっぺんに和らいで、ああ来て良かったと、うれしくなったことを今でも覚えています。
でも、無教会と言っても、それぞれの真実を重んじるがゆえに、またある時は神様の介入によって、集会の中に問題が起こることもあろうと思います。ある地方の集会でも、もともと数人の集まりなのに意見が合わなくなり「別れよう」といって礼拝を守るのも難しくなったと聞きました。でも、誰がどんな歩みをしようと、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」ルカ18:13という祈りなしに生きられないという一点において、私たちは皆同じなのです。それぞれが別の道を歩むようになっても、罪人どうし、お互いに足を洗い合う思いがあれば、主は必ず祝福して、良きに導いてくださると信じることができます。
この無教会全国集会も、名前どおり、一年に一度全国の人が集まって、永遠の神の言葉に集中して、それぞれが主にある歩みを語り合い、聖霊が生きて働いてくださる場となれば、どんなに大きな喜びでしょう。それぞれの無教会集会が、自由と独立を尊重しつつ、なおも互いに足を洗い合い、これからも永遠に変わることのない「神の言葉」に立って前進できますように、
今日、こうして話す機会を与えてくださったことを感謝して、お話を終わります。